エッセイ

分水嶺の北側

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C-9 市川 熹

蓼科牧場の直ぐ先、左側に女神湖(もとは「赤沼」と呼ばれた湿原で、食糧増産のために造られた人工湖です。最初に試みられたときには水が漏れてしまい、作り直したそうです)があります。

女神湖の近くに「鍵引き石」という岩が六川道(県道40号線)沿いにあります。望月の牧場から諏訪に行くには、中山道や大門街道はやや遠回りで、和田峠など、厳しい峠もそれぞれ2つ越えなければならないのに対し、六川道は狭い道ですが、便利で、通る人も多かったそうです。しかし、赤沼に住む河童が「鍵引き石」に出没し、通りがかった人の馬の「尻こだま」をぬいて食べるため、人々は大変困っていました。河童は馬の手綱に鍵を投げてひっかけ沼に引き込むのだそうです。

あるとき庄屋に馬を運ぶようにと善助爺さんと柏原の作蔵が頼まれました。善助爺さんは芦田で所要があり、作蔵は先に行くことになりました。作蔵は力持ちで評判でしたが、途中操作ミスから手綱を切ってしまい、裸馬で通りかかりました。河童はやむを得ず鍵を投げて作蔵の腕にひっかけ引こうとしましたが、馬が驚いて駆け出し、作蔵は馬の尻尾にしがみつき、半町ほど河童も引きずられました。河童は弱ったところを作蔵に組み伏せられてしまいました。後から来た善助爺さんの提案で、今後このような悪さはしないと証文を書かせ、恩を売り逃がしてやったそうです。その後河童は現れず、安全に通れるようになったそうです。

「赤沼の河童」には、諏訪頼遠に力比べをして負けたなど、他にも別伝があります。

話しは先走りますが、和田峠の厳しさを裏付けるものとして、峠の深沢地区に「接待」と呼ばれる場所があります。江戸時代に日本橋馬飼町の綿糸問屋中村有隣という人が、その難儀さを見かねて休憩所を作るようにと、幕府に千両を寄付、幕府は尾張藩に運用を委託し、毎年利息百両を二分して、1827年から明治3年(廃藩置県)まで、和田峠と碓氷峠の休憩所支援に活用したのが「接待」という呼び名の起源だといわれています(和田村資料から)。東海道は伊勢湾や多くの大河を渡り、箱根を超えるなど、必ずしも便利ではなく、東山道や中山道が東国への主要道路だったことを反映しているエピソードですね。

蓼科牧場からは、右に林道を登ってゆくと御泉水、鳥居のある蓼科七合目(これも観光目的で「七合目」とされたようで、ここから鳥居をくぐって登山道を登ってゆくとその上に五合目という標識が出てきます!)を経て大河原峠に出ます。蓼科牧場からは赤谷を経て大河原峠までも諏訪バスが入っていたのですが廃止になってしまいました。その先は佐久平方向ですが、私は行ったことがありません。

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