エッセイ

分水嶺の北側

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C-9 市川 熹

ある時、石工がこの石を割ろうとして金槌で二つ三つ叩くと山鳴りがして地震が起き、たちまち火の雨が降り、石工はもだえ苦しんで死んでしまったので、この事があってから、強く叩くことはいけないとされています。柔らかく叩くと鈴のような音がします。鳴石は大和の王権による東国の制覇が一段落し、大和と東国の交流、東西の交易が盛んになった6~7世紀頃に蓼科の神を祀る祭祀の場として古東山道の交通の要衝に築かれたものと考えられています(立科町資料から)。

「雨堺」(古くは「役の行者越え」「天坂」)付近は祭祈に用いる勾玉の滑石製模造品等が出土することから「勾玉原」と呼ばれています。この「雨堺」は諏訪・白樺湖方面からの雨雲の移動経路ともなっているようです。白樺湖方向に黒雲が見えると直ぐに雨や雷が来ます。

「赤沼の河童」伝承に出てきた「鍵引き石」も実は旅人の安全を願った祭祈遺跡ではないかといわれています。このように見てくると、「六川道」が律令制以前に設定された古東山道であった可能性があるのではないでしょうか。

逆に蓼科牧場から白樺湖方向へ県道40号線を行くと、途中に箕輪平というところがあります。このあたりには、蓼科山からの湧水を遥か下流の水田の灌漑用水として引かれた水路が何本もあります。「堰(せんぎ)」とよばれ、「塩沢堰」、「八重原堰」などがあります。17世紀前半の寛永年間に起工され、慶安年間、家光の時代にようやく完成したようです。今日まで300年も利用され続けていることになります。私が利用した「宇山堰」は、町営水道が引かれ、残念なことに昭和43年に廃止になりました。

箕輪平から蓼科山方向に分け入る間道があり、そこを行くと諏訪大社上社の御柱祭に切り出された御柱の切り株を見ることができます。さらに進めば、「五社大神」(石でできた地蔵のような神様が「塩沢堰」のわきに祭られている)を経て「馬返し」に出る登山道になります。「五社大神」の近くには、国有林の山火事などを監視する「番小屋」があります。この付近ではキャンプファイヤなどをするときには事前に連絡することになっていると思います。

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