エッセイ
分水嶺の南側とミシャグチさま
[3/8]C-9 市川 熹
「旧御射山」では、平安初期に、坂上田村麻呂が蝦夷征伐のために信濃に来た際に、諏訪明神が騎馬武者に変身し軍を先導、蝦夷の首領を射落としたという伝承から鎌倉時代ころより流鏑馬などの競技が行われるようになったようです。三角形の盆地状の場所で、周りに数段の観客席の石組が囲んでおり、鎌倉時代に流鏑馬などを行った競技場跡と言われています。草で覆われ、良く見ないと判りにくく、オリンピックの遺跡のようには大規模でも派手ででもありませんが。観覧席の西側が甲州桟敷、南側が信濃侍桟敷、北東側がメインで勅使や鎌倉御家人などの桟敷となっていたようで、7月下旬に年に一度実施したそうです。長径350m、短径250mで、3方に観覧席があり、国立競技場より大きく、3.5万人~10万人収容できたとの伝承もあり、東京オリンピック前に大きな話題になりました。
霧ケ峰の麓は諏訪大社下社の御柱の育成地でもあり、さらに霧ケ峰湿原は、尾瀬と共に国から指定された天然記念物(1939年、1960年)で、その動植物は非常に貴重なものとなっています。人の立ち入りなどは、遺跡の破壊や貴重な植物の絶滅などの危惧があるということもあって、諏訪の人々はビーナスラインの建設に反対しました。初めに触れた「霧の子孫たち」は、この運動を小説化したものです。霧ケ峰は諏訪人にとっては特別に思い入れの強い地となっています。諏訪教育会では、1975-1983年にかけて「諏訪の自然」地質編、動物編、植物編、陸水編、気象編を編纂発行しており、霧ケ峰の植物リストなどを掲載していることからも窺えます。
話しの本筋からは外れますが、閑話休題、霧ヶ峰には「ヤマウバになったムスメ」という伝承を紹介しておきましょう。
「蓼科高原麓の湯川村にオカンという娘がいた。ある日野良を歩いていると天がにわかに掻き曇り、黒雲の中から天狗がいきなり飛び出し、オカンを抱えて消え去った。何時までたってもオカンが帰らないので大騒ぎになったが、やがてあきらめられ、忘れられてしまった。