エッセイ

分水嶺の南側とミシャグチさま

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C-9 市川 熹

さて、私が当地を最初に訪れた当時、茅野から白樺湖に行く諏訪バスは、車内アナウンスがあり、「御座石神社」の由来などを案内していました。「建御名方神」の母親である「高志沼河姫」が祭神で、高志(越)の国(コシ:現在の新潟県付近)から鹿に乗って大門峠を越えてきたときの鹿の足跡が残っているというところです。

諏訪郡の各神社は大社の御柱祭の前後、例えば10月頃などにそれぞれ小さな御柱祭を行います。プール平近くの林の中の諏訪社にも御柱が建てられています。白樺湖の島にある神社では、御柱を湖を渡して行くなど、独特な方法によるそうです。

茅野市中心市街地の東、大泉山のふもとを流れる柳川に、多留姫の滝(多留姫文学自然の里、茅野市指定文化財)と、そのそばに多留姫神社があり、建御名方神の子・多留姫神がまつられています。諏訪大社の七不思議のひとつに、葛井の清池(茅野市葛井神社)という伝承があり、多留姫の滝に椀などを流すとこの池に浮かび、さらに諏訪大社大晦日の神事のあと、この池にお供え物を投げ込むと元旦に遠江国(現在の静岡県西部)の佐奈岐池に浮かぶと伝えられています。

諏訪大神タケミナカタが出雲でヤマト勢に破れて諏訪に逃れ、地元のモレヤ族との戦いに勝利した神話は何ゆえ成立したのかという解釈には、様々な考え方があるようです。神話の多くは全国規模の複雑なストーリとなっていますので、単に古事記や日本書紀の作者が作り出したのではなく、古代の経済状況や政治状況を下書きに、作者の立場(政権の視点)から事実を神話に置き換え書き換えたというのが、現在の解釈の主流的考え方のようです。どの説ももっともらしく、読んでいて楽しくなり、自分でも推理したくなります。

その解釈の背景の中に、古代の「表日本」は日本海側であったということと、武器や農機具の重要な素材である「鉄の技術」の技術競争があるというものがあります。

前者については、北九州―出雲―敦賀―三国―糸魚川(越)―新潟(越後)―信濃川―諏訪という文化の流れを考え、その中に例えばタケミナカタの母親が越(現在の新潟県)の出身という伝承の意味を捉えているようです。もちろんタケミナカタ自体もこの流れの中に見ることが出来るでしょう。

尾張や信濃、越など東国は縄文文化を保持し、弥生農耕文化への抵抗が強たったようです。特に信州は今日まで西日本からの文化に対する抵抗が強く、仏教なども中々受け入れなかったといわれています。

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